だから呼んで、

いつでも行くよ。




 アメリカがロンドン郊外のイギリスの屋敷を訪ねた時、中には誰もいなかった。古風な呼び鈴を押しても返事がない。なあんだ、せっかく来てやったのに。アメリカはマクドナルドで買った、彼にしてみれば小さなオレンジジュースを音を立てて飲み干しながらそう思う。けれど今日はプライベートでアポイントを取らずにいきなり来たのだから、イギリスがいなくても彼に非はないのだった。
 さて、空振りだったけどどうしよう――オレンジジュースを飲み干したアメリカは、次に食べるバーガーを取り出しながら空を見上げた。ロンドンは今日もどんよりと雲が立ち込めている。アメリカはこの空を見ると、イギリスの持つ偏屈なこだわりとかくだらないプライドのことを考えてしまう。うちの西海岸みたいな、真っ青な空と大きな太陽のある所にいたら、彼もあんなねじくれた性格にならなかったんじゃないかな。まあ、明るいイギリスなんて気持ち悪いだけだけどさ!
 ふとアメリカは、空へと立ち上る一本の煙に気付いた。どんよりとした空より一層重々しい――というよりは禍々しいと形容すべき色をした煙は、なぜだかとてもイギリスらしい気がする。そう思って煙を下へ辿ると、どうやらイギリスの屋敷の裏庭から上がっているようだった。ああ、やっぱり。そんな気がしたんだぞ。あれの元にきっとイギリスがいるのだろう、アメリカはそう考え煙の元まで行くことにした。
 イギリスの屋敷の裏側はバラ園になっている。そこで彼は彼の愛する花々を、彼の思う通りに育てていて、たまに「家に飾れよ、別にお前のためじゃないんだからな!!」とか言いながら自慢のバラを花束にして突き出される(イギリスの意図を汲み取った言い方をすれば「くれる」)ことがある。それはアメリカの家にイギリスが訪問した際だけに行われることであればよかったが、よその国の会議場でも行われることだったので、アメリカはほとほと困っていた。その度に派手な花束を抱えて帰る羽目になるのだ。イギリスはどうして、こんなきざったらしいものを持ち帰れと言えるんだろう。バラなんて、食卓に飾る一輪があれば十分じゃないかい? アメリカはしおれてゆく花を見ながらいつもそう思うのだ。

 思った通り、バラ園の奥にはイギリスがいた。全身を覆う黒いフードを被り、片手には随分古そうな分厚い本を持って、たき火の前に立っている。何かぶつぶつ言っているのは、よく聞くとあの中国の別荘へ遭難しに行った時に聞いた歌だった気がする。あの「焼き尽くせ〜」というやつ。それを彼はまた大真面目に焚き火の前で繰り返し唱え、一人リサイタルを開いているのだった。
「……イギリス、また悪魔でも呼びだしてるのかい?」
 アメリカはしばらく黙っていたが、手の中のハンバーガーを食べ終えてしまったのでそう問うた。あまり知りたいことではなかったが、いかんせん彼はヒーローだったので、大した罪もない誰かが迷惑を被る可能性を無視することはできないのだった。
 イギリスはその問いで初めてアメリカの存在に気付いたらしく、猫が毛を逆立てるようにして驚き、「来るなら来るって前もって言えよばかあ」とか「これは呪いだそれくらいも分かんねえのかよ」とか言いながら、喜んだり怒ったり照れたり焦ったり説教したりするという器用な真似をしてみせた。そしてアメリカの質問を「ホワットアーユードゥーイングナウ?」と受けとったイギリスは、先日の会議後、ドーバー海峡を挟んだお向かいの国がどれだけ己を怒らせたかについて熱く語り始めたので、アメリカは袋の中から一つバーガーを取り出して食べ始めた。アメリカはぼんやりと、フードのせいでイギリスのきらきらした緑の目がフードの影になってよく見えないのが残念だと思った。
 アメリカがイギリス家のマクドナルドのサイズについて考えながら黙って食べていると、イギリスの話はいつの間にか、今かけようとしている呪いがどれほど秀逸であるかについてになっていた。アメリカはその内容はよく理解できなかったが、その術式には強い炎が必要であり、だからこそいつもの呪術専用小部屋ではなく、このように屋外でやっているのだということだけは分かった。
 アメリカにとってそれらは全てどうでもいい内容だったが、一つだけ聞き逃せない箇所があった。
「でも、火の勢いが全然足りないんだよな」
 イギリスがそう言いながら透明な液体の入ったボトルを手にした時、アメリカはとてつもなくいやな予感に襲われた。しかしそれはハリウッド映画で、ピンチを察したヒーローが何も出来ないまま事件に巻き込まれてゆくように、あっても何も役に立たないものだった。
 イギリスは、自分こそ最たる常識を持った者だと信じている節があったが、それはとんでもない勘違いの思い込みだとアメリカは考えていた。きっと他の国々に聞いても、こればかりは異議なくアメリカに賛同してくれると思うし、たとえイギリスをよく知らない人でも、彼の武勇伝をいくつか聞かせたら同意してくれるはずだ。
 イギリス、ちょっと待ってくれよ。そのボトルはなんだい? 火の勢いが足りないからって、それを一体どうするつもりだい? ――沸き上がる数々の疑問をアメリカが口にするより早く、イギリスはボトルの蓋を開けて、それをたき火の上で傾けた。まるでスローモーションがかかったように液体――危惧した通り、それはガソリンだった――がゆっくりと零れ、それを伝い炎が上ってゆく様が、アメリカの目にははっきりと映った。
 揮発したガスによってたき火は一瞬にして体積を何倍にも増やし、その出所であるボトルまで達した炎はそれを飲み込む。ボトルは引火した途端爆発し、今度はイギリスのローブへ飛び移った。

 たった一瞬のうちに、イギリスは火だるまになってしまった。

「うわっちゃあああぁぁぁぁぁ!!」
 絶叫が響き渡る。イギリスは突然の痛みと熱にショックを受け、パニックに陥った。反射的に地面に倒れ転げ回り消火を試みたが、それでも燃え移った炎は消えない。閑静な住宅街にこだまするイギリスの断末魔は、休日の昼――それこそアフタヌーン・ティーの時間――にはあまりにも場違いで、いっそ現実味がないとさえ言えた。
 それに対しアメリカの行動は早かった。食べかけのバーガーを放り出すと、とっさに手元の袋から一本のペットボトルを取り出して上下に激しく振った。それは赤いラベルの、アメリカのところで作られているコークだった。アメリカはイギリスに向けてその蓋を開けた。あのソフトキャンディがあったらもっとすごいものが見られただろう、なんて思えたのは、あとから日本に笑い話としてこの顛末を話した時だ(日本はちっとも笑ってくれなかったけど)。けれどこの時のアメリカには余計なことを考える余裕はなく、ただただ必死だった。
 ぷしゅうという音と共に、黒い泡となった液体が勢いよく噴射された。2リットルのコークが泡立ちながらイギリス向けて飛んでゆく。コークが消火器代わりになるなんて都市伝説があった気がするが、あれは本当だった。後から指摘されて気付いたことだが、二酸化炭素の溶かされた液体は火を弱めるのに実に効果的だったのだ。みるみるうちに火が弱まってゆく。コークをばらまき終えたアメリカはペットボトルを放り投げ、まだ火の残るイギリスのローブを剥ぎ取った。ガソリンを持っていた右手にひどいやけどをして髪や服を焦がしてはいたが、燃えたのはほぼローブだけだった。火だるまになったにもかかわらず、イギリス自身は致命傷を負ってはいなかった。
 アメリカはパニック状態のイギリスをなだめて救急時の番号を聞き出して通報し、バケツに水を汲んで――水遣り用のものがあったからすぐ見つかった――改めてイギリスの全身と、もうただのぼろ切れと成り果てたローブに水をかけきちんと消火し、もう一度バケツに水を張るとイギリスがやけどを負った痛々しい右手を取り、その中にそっと入れた。

 そしてぷつんと糸が切れたようにへたりこんだ。

 アメリカはヒーローのはずだった。まだまだやるべきことはたくさんある。この後救急隊が到着したら的確に状況を説明し、救急車に同乗しなければならないのだ。彼の上司に連絡する必要もあるだろう。あと……他にも色々だ。だからこんな風にイギリスの手(もちろん左の)を握ったまま放心して「アメリカ、大丈夫か? ごめんな、ごめんな」なんて、逆に心配されてはいけないのだ。ピンチの時のヒーローはもっと頼りになる人間でなければならない。休息にはまだ早い、まだ終わってはいないのだ。
 けれど今アメリカの頭を支配しているのは、イギリスがパンジャンドラムの制作に失敗して死にかけた、あの時のことだった。イギリスは極めて非常識的なものを、極めて真面目に作ろうとするので、ああいった事態はあれが初めてではなかった。けれどアメリカは「イギリスが危篤だ」と言われて入院先に向かう飛行機の中で手足が震えるのをいつも止められなかったし、イギリスが弱り切った顔をして、「お前のこと、嫌いだったわけじゃないぞ」なんて素直に言うのを見るのも辛くて仕方なかった。自分たちは「国」だから、身体にダメージがあっても死なない。頭では分かりきっているのに、それでもアメリカはその度に怯えてしまうのだ、イギリスの「死」を。
 だからアメリカは願っていた。彼がまた危ない目に遭う時は、どうか自分がそばにいますように。そのピンチを自らの手で救えますように、と。アメリカはヒーローだったが、悲しくもそれ以前に「アメリカ」なのだ。イギリスがピンチになったとしても、必ずすぐに助けられるとは限らない。だってニューヨークとロンドンは遠い。いくらあの時から60年程の月日が経って移動にかかる時間が減っても、それでも間に合わないものは間に合わないのだ。
 アメリカのかけた二つの願いは叶ったが、アメリカはちっとも嬉しくはなかった。むしろ、かける願いを間違えていたことを思い知った。本当はこう願うべきだったのだ――イギリスがもう、馬鹿で無茶な真似はしませんように!――馬鹿な無茶をしないイギリスは、イギリスでないにしても、さ!
 うつむいて黙ったまま手を握り続けるアメリカに、イギリスは更に必死に謝っていた。イギリスの目には涙がたまっていて、きっとそれはアメリカが何も言わないせいだった。君は大やけどをしてるっていうのに、どうして俺のことで泣きそうなんだい? アメリカはそう思ったが、口は浅い息を繰り返すだけで、声を出すように動いてくれそうになかった。心臓がばくばくと痛いくらい大きく動いているのを感じる。イギリスのきれいな緑の目が、涙のせいでいつもよりきらきらしていてとてもきれいだったことを、アメリカは今でもはっきり思い出せる。
 救急車のさわがしいサイレンが聞こえてきて、アメリカはやっと金縛りから解放された。だからイギリスの手をぎゅっと強く握ると無理矢理笑顔を作って、こう言ったのだった。


「ヒーローのいないところでピンチになったらいけないんだぞ、イギリス」